last updated 1997/07/27
第73話(全130話)
暴風雨(2/2)
フィンフィンが波に揺さぶられるまま、ガクンガクンとその体をマストにぶつけている。意
識はとうに波間に砕け散っているようだ。ワーターはもう息をしていないかのように動かない
。マスターは頭上で風が咆哮を上げるのをマストにしがみつきながら聞いていた。咆哮がひと
きわ大きく耳を聾したかと思うと、凄まじい速さで空を駆け抜けるライオンのような風は、マ
ストから帆を引き千切って行った。編まれた葉が水しぶきの中でばらばらになり、狂ったよう
に舞いながら海の彼方に吹き飛んで行く。嵐の直前に体に巻いたロープだけが、いまマリカと
ピートとフィンフィンが海中へと引きずり込まれるのを防いでいた。しかしそのロープも豪雨
と荒れ盛る海とにねじり上げられ、ギシギシと軋みはじめていた。丸板をつなげただけの筏は
早くもバラバラになりそうだった。船は片側が空へと持ち上がるのに、もう片側は海の底へ沈
み込もうとしていた。水平な面はもはやどこにもなかった。ぶつかり合う板と板に手をはさま
れ、マリカは悲鳴を上げた。
マリカが喘ぐと、その顔面に波が砕け落ちてきて、彼女の口の中に海水が流れ込み、カイラ
国の姫君を溺れさせようとする。ピートはマスターの機能をフル稼働させて、ワイヤーを引き
出し、そのワイヤーでマリカの足とフィンフィンの尾鰭とワーターの尻尾と自分の胴体とを結
び付けた。すこしもジッとしていない暴れる海の上で、躊躇なく作業を進められる自分をピー
トは意外な思いの中でみつめていた。尻込みをしたり、頭を抱えて泣いていたりするような場
合じゃなかった。そんなことをしても、誰かがよしよしと慰めてくれるような、そんな甘い状
況ではなかった。自分がマリカとフィンフィンを守らなければ、海と風が、三人を永遠に出逢
えないはど遠くへと引き離してしまうだろうと思った。じっさい、海はそのつもりでいるよう
だった。穏やかだった海はいま、血に飢えた巨人だった。仲間をその巨人の餌食にするのは真
っ平だとピートは思った。もし筏がばらばらに分解したら、その時は自分が海に沈んで、マリ
カとフィンフィンのための錨になろうとピートは腹を決めていた。筏の半分の浮力に釣り合い
のとれる重りがあれば、波がどんなに前後左右に揺さぶろうと、ひっくり返ることはないはず
だ。そのために、どんな船にも錨が付けられている。マスターの体なら、水に沈んで錨の代わ
りをじゅうぶんに果たせるだろう。そのためにこそ、マスターはこんなずん胴のデザインを施
されていたのかもしれない。ピートはそう思った。
いまは互いの体をしっかりと抱き留めておくべきだとマリカは思っていた。誰かひとりでも
海に落とされたら、もう助けることはできない。激しい風があっという間に落後者を海の遠く
に運び去ってしまうだろう。空は暗く、闇に支配されていた。一メートル離れた場所にいるマ
スターの姿さえ、良く見えない。闇に加えて雨が、マリカの視界を遮っているせいだ。離れ離
れになるわけには行かない。またしても私の判断ミスで、仲間を死に追いやるわけには行かな
い。ワーターが自分の上に覆いかぶさってくる。彼はあたしを波の攻撃から守ろうとしていれ
ているのだろう。川でチイジイに捕まった時、あたしはワーターを見殺しにしようとしていた
のに、そんなこと、ワーターはまるで気にしていないらしい。あれはあれで、大自然の法則に
則った判断だったと認めてくれているのだろう。けれど違う。あたしは安全も確認しないで川
に入るべきじゃなかったのだ。あれは、あたしの判断ミスが招いた事故だった。責任はあたし
にある。いまもまた同じだ。風に従えとアーバムが言ったからと言って、こんな粗末な船で大
海へ乗り出すのは、やはり無謀過ぎた。これもまたあたしの判断ミスだ。いや、自分で進む方
向を決定する責任から逃避していたのだ。アーバムの言う通りにしただけよって、そんな責任
逃れの弁解をどこか頭の片隅に、あたしは用意していた。だからこんなことになる。責任を放
棄してしまうから、自分では収拾のつかない窮地に仲間を突き落としてしまう。マリカは呪っ
た。海や空や風ではなく、自分自身の無責任を呪った。肝心なところで、お姫さま気取りで他
人に尻拭いをさせようとする、そういう自分のズルさを呪った。
稲妻が瞬き、低い雲に光をにじませた。そのわずかな光の中で、マリカは仲間たちの安否を
確かめる。奇跡的に、誰もまだ筏から振り落とされてはいなかった。誰もが抱き寄せ合い、崩
壊寸前の筏にしがみついている。
雷鳴の光の中で、雨のシェイドの向こうから、マスターもまたマリカをみつめていた。
大丈夫? まだ持ちこたえていられる?
その目が問いかけてくる。マリカは「もちろん」とやはり目でうなずきを返した。負けてな
るもんですか。みんなをこんな地獄に連れてきておいて、真っ先に音を上げるようなあたしじ
ゃないわ。乗り越えてみせる。この雨と波の乱痴気騒ぎから、何としてでもみんなを脱出させ
てあげる。そうすることでしか、自分にかけた呪いは祓えない。それが出来なければ、あたし
は一生この旅を悔やむことになるだろう。
マリカはまた空が光るのを見た。その空に接するほどの巨大な波の壁が、筏の前方に盛り上
がって行くのが、光に照らされてはっきりと見えた。波は海のすべての力を集めようとしてい
るかのように、うねりながら、さらにどんどん高く大きく膨れ上がって行く。そこに豪雨が援
軍として加勢する。ズズズっと筏がうねりながら持ち上がって行く海に引きずられた。臨界点
まで達するのはあとわずか数秒だろう。その後、波の均衡が崩れて、波頭が崩れはじめるだろ
う。怒涛の雪崩がいままさに自分の頭上に迫り来ようとしていた。
「伏せて! 頭を守って! ぜったい隣の人から手を放さないで!」
マリカは叫んだ。ピートは傷ついて動かないフィンフィンを両手で抱き締めた。手当てして
あげた傷は白く変色し、いまだ血が吹き出している。止血剤も包帯も、とうに風がフィンフィ
ンから奪い取っていた。マリカはワーターを庇おうとした。しかしワーターが逆に彼女の上に
再び覆いかぶさった。マリカが自分でどう言おうと、ワーターにとって彼女はいつまでも、大
切な姫君であるらしかった。マリカはワーターの足をしっかりと捕まえた。この手だけは放す
まいと誓った。
空が光る。そして空の頂きから、巨大な波が筏めがけて崩れ落ちてきた・・。
(つづく)
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